楽して技や理合が理解出来る分けない。武の世界で大切な事。

技の順番を覚えてただやっているだけなのに
「この理合がどう」とか
「この技はどう」とか
「自分は流派の理合が分かっている」であったり
「技を理解している」であったり
戦えると本気で勘違いしている人がいる。

形稽古でよく言われる弊害だが
本人たちは、全く分かっていない。

剣道やなぎなたで
一眼ニ足三胆四力という言葉を使う事がある。

最初に戦いに使える眼を養い
二つ目に戦いに必要な足を養い
三つ目に戦いに必要な胆力を養う
そして最後に戦いに必要な力が来る。
はずだが

戦いに必要な眼も養わず
戦いに必要な足も養わず
戦いに必要な胆力も養わず
最後に来る力(技など)を覚えているだけで
「自分は武術を理解している」と
思い込んでいる人もいるようだ。

それは、
ただの戦いの真似事であって武術ではない。

いつから武術は、

戦いの真似事になったのだろうと思う事がある。

技だけ覚えただけで「武術?」
「え!」と呆れる事もある。

純粋に武術を武術として武道を武道として
修行している人がどれぐらいいるのだろうか。

時代が変わっても変えていいもの
変えてはいけないものがあると思う。

それも分からず
ただ戦いの真似事の繰り返す事で
「自分は武術を理解している」
「自分は戦える」
「自分は強くなっている」
と思いこむのは本人に自由だが
周りから見ていると滑稽にしか見えない。

そのような人間が
「この流派の理合はどう」とか

「この流派のこの技はどう」とか
 語っているのを見ると

「こんな人達が増えたら  
 この流派は終わりだな」と 正直思う。

だからと言って形稽古を否定している訳じゃないし
する必要もない。

私が所属していたり過去所属していた
古流の流派、武道の道場でも

きちんと
武術をカルチャーセンターの運動や
ラジオ体操ではなく武術として修行している人もいるし

武道もスポーツではなく、
あくまで武道として修行している人もいる。

ただ 「楽な事だけして技だけ覚えて理合を理解?」

先人が命懸けで学び身に付けてきたものが
そのような人間達のために
おかしな方向へ導かれないか危惧する時がある。

武術も武道も遊びじゃない。

武術は武術家として修行するものが学ぶものであり
武道は武道家として修行するものが学ぶもの。

真面目に稽古へ向き合い修行する人間達が
集う場所が武道館であり道場である事を節に願うが
そうなっていない場所もある。

武術家である先生が育てたい人間は武術家であり
武道家である先生が育てたい人間は武道家。

少なくとも
あなたは、技を覚えただけで
武を理解したと勘違いする人間にはならないようにしようね。

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